世相

多様性

暇なので最近はYoutubeが娯楽となっている。オーストラリア人と日本人の国際結婚の
カプルのYoutubeが面白かった。日本の良いところ悪いところをオーストラリア人の細君が縷々取り上げていた。良い点というか気に入っていたのはまず四季が明確なことだそうである。オーストラリアにも四季はあるが、日本ほどはっきりしていない。なんとなく季節が移り替わる。また、日本は南北に長いので、土地により全く異なる。しかし、オーストラリアはどこでも同じである。

日本はその土地毎に歴史、風俗、習慣、文化が違う。季節ごとにお祭りがある。オーストラリアはどこでも平均している。家のつくりも日本では土地毎に違うがオーストラリアではどこでも同じである。多様性という点では日本は際立っている。治安の良さ、人々が温和で争いが少ないことは最大である。

日本で最も嫌だったのは硬直性だそうである。これがきまりですというとテコでも動かない。細かい事だがこの女性はベジタリアンなのだそうで、レストランで肉を抜いてくれといっても頑として聞かない。この女性は日本語がかなり話せるらしいのだが、日本語で注文しても覚束ない英語で答える。外人は日本語が話せないと決めてかかっているらしい。旦那と一緒にレストランに入っても旦那にばかり話しかける。レストランやお店のサービスが丁寧なのは良いのだが、ロボットがやっているようで嫌だったそうである。オーストラリアでのサービスははるかにぞんざいだが、しかし、人間的だそうである。ありがとうという言葉自体もそう思わなければ言わない。

多様性

たまたまTVを見ていたところ、外国にルーツのある青年を集め、ダイバーシティを論じる番組があった。ダイバーシティは「多様性」と訳すらしい。アンケートの公開があり、設問は多様性は良いと思うか、悪いと思うかということであった。「悪い」とする答えが「良い」よりかなり多かった。「多様性」なる言葉の定義をせず、良し悪しを設問とするのも、ずいぶん無茶な話ではある。司会者はどうやら多様性に理解を求めることが正しいと信じているのであろう。
老生は最近出不精になり、Youtubeを見るのが楽しみの一つである。パリに暮らし、働いている日本人の世間話にこんなのがある。たまたま白人ばかりのお店だったようであるが、日本人はみんな平べったい顔ばかりで、鼻も低い。あれでちゃんと息ができるとは不思議だと、面と向かって言われたとか、あんな細い目でみえるのかしらと言われたとかといった話である。言っている当人はもちろん差別意識も悪気も毛頭ない。小さいお店で、従業員はフランスではどちらかというと下層らしかったので、そんな話題は差別になるよと注意する人も周囲にはいないのだろう。インテリのいわゆる「ポリコレ」で粉飾した話よりはよほど正直で本音丸出しである。外見が異なるのは目立つのである。
日本はほぼ99%は人種的には同一であり、歴史上でもアジア人の流入はあったであろうが、白人や黒人の流入はほとんどなかったので、外国人との混血は外見上でもかなり異なり目立ちやすい。しかし、「多様性」は単なる善悪や外見の好悪の問題ではない。人がまとまった社会を構成し、平穏に暮らすには価値観があまりに異なる人は受け入れがたい。たとえば、嘘つき、泥棒などの犯罪者までいかなくても、攻撃的な人、社会性のない人は、のけ者にされやすい。
日本人は「和をもって尊しとなす」の社会であるが、普遍性のある価値観とはいいがたい。
極端な話にはなるが、ブラジルのアマゾンには嘘、だまし、暴力を是認し、自己の利益のみを善とするインディオ部族があるそうである。ただし、この部族の人口は減少する一方であるとのことである。それはそうだろうというのは日本人だけの納得で、日本社会ですら、たとえばやくざなど価値観が全く異なっている集団がある。国レベルでも文化や価値観は多様である。「和をもって尊しとなす」だけで世界を相手にできるほどには単純ではない。単なる善悪を離れ、現実を知ること、そのうえでどう対処すべきかを考えたい。

気のゆるみ

1週間ほど前、大阪で弁護士との接見を終えた容疑者が逃走する事件が起きた。メディアは連日大騒ぎである。警察の失態が責められるのは当然のことである。こんな事件では決まって、態勢のゆるみ、緊張感が足りないとの叱声が上がる。政治家の失言などでも同様である。決まり文句といってよい。ただとりあえず言ってみただけである。
この事件では、容疑者と面会者を隔てるアクリル板が蹴破られ、面会室の出入りの開閉ブザーは電池がなく、面会室の前室にはだれもいなかったという。気のゆるみといえば、それまでであるが、いくら警察であっても、瞬時も気を抜かず、緊張を持続させることはできない。人間だからである。
老生がまだ現役だったとき、同僚に職場恋愛で結婚を約束していたカップルがいた。結婚式がまじかになったある日、婚約者を助手席に乗せ、帰宅途中に追突し、婚約者は車外に投げ出され、当たり所が悪かったらしく、即死した。まことに気の毒な出来事で、一瞬にして幸福の絶頂から奈落につき落とされたようなものであった。
この場合には、いくつもの「もし」がある。もし、シートベルトをしていたら、もし、ドアロックをしていたら、もし、おしゃべりに夢中にならず、もう少し前方注意を怠らなかったら、もし、夕方で薄暗かったとしてもライトを事前につけていたら、もし、前方に路上駐車の車がなかったら、もし、スピードがもっとゆるかったら、等々である。運転は緊張感を以てとは常々言われることではあるが、誰にも気のゆるみはありうる。しかし、大抵の場合は事故には至らない。それはここで言った「もし」がすべて連続することはめったにないからである。ほとんどの場合は、交通規則と通常の運転マナーの順守だけで十分である。
警察の場合は、犯罪者が多いのであるから、一般人とは異なり、より緊張感が要求される。しかし、今回の場合も、やはりいくつもの「もし」がある。
専門用語になるが、有害な事態を生じるにはいくつもの要因が重なることが指摘され、それをイベントチェインという。どんな「もし」があるかは、現場により異なる。「もし」の検出と対策はそれこそ、最大の緊張感を以てしなければならない。その後は通常のやり方でよいのである。気のゆるみだってある程度は許容されるのである。