飼い犬の悲しみ
この記事は実は昨年12月6日に書いたものなのだが、掲載を控えていた。長辻氏の名文に恐れをなしたせいでもあるが、記事の趣旨をまげているととられるかもしれないと思ったからでもある。産経新聞に「交通死は現代社会の人柱か」と題する長辻論説委員の記事が掲載されていた。ご父君が交通事故で急死されたことにまつわる記事である。91歳のご高齢ではあったが、まことに壮健であったとのことであり、謹んでご冥福をお祈りする。しかし、老生が胸を打たれたのはお父上が飼っていたトイプードルにまつわるエピソードである。
以下、引用
伴侶に先立たれた父は、5歳のトイプードルと仲良く一人暮らしを続けていた。
遺体が自宅に戻ったとき、犬は父の顔にかじりついて悲鳴を上げた。それまで耳にしたことのない声だった。
葬儀所でも犬は棺の上に身じろぎすることなく座り続け、近所の人たちの涙を誘った。
こんなことがあるものなのか。忠犬ハチ公にしても学者たちは単なる習慣とか、あたかも犬が機械の一つのような解釈を下す。合理的な解釈をするなら、いつも愛してくれたご主人が冷たくなって帰ってきたことに、重大な異変を感じたということかもしれない。犬は自分を可愛がってくれる人を心底から愛している。犬は人間にとっては実に有用な存在であるから、目的に応じて改良が重ねられてきた。あたかも機械が次々に改善されてきたかのように。しかし、犬や猫を抱き上げるとぬくもりが感じられる。到底単なるものとは思われない。
ひところソニーのAIBOが話題になった。ロボット犬も人とのコミュニケーションではかなりの能力を備えていることは確かである。AIが囲碁の名人に勝つ時代である。今後さらに進歩すれば、介護などの現場では実に有用な存在になるであろう。しかし、このわんちゃんには心底からの悲しみが感じられる。生き物には温かい血が流れている。それと同時に心がある。人を愛するという心はAIがどんなに進歩しても実現することはないだろう。心は見せかけではないからである。